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11/16 Be patient !

この記事は2010年に書いた日米補完協業に関する随想です。 「時計の針を40年遡らせた今年のノーベル物理学賞-その1」 1970年という年は、半導体が情報化社会を創出していくこととなる節目の年であったように思えます。バイポーラからMOSへと主流は移り、メモリー、プロセッサーなどコンピュターの奥深くにまで浸透し始めました。ベル研究所で半導体レーザーの室温連続発振に成功したのもこの年だったと記憶しています。 そして、撮像デバイスを真空管から固体に変えることを可能にしたCCDの発明発表もこの年です。直接には関連しないのですが、市場のうねりに同期して、画期的な平板ディスプレイの開発発表がなされたのも、この年なのです(厳密には’69年、バローズからプラズマ、RCAから液晶、ディスプレイが発表されました)。また、今回の対象となった光ファイバーの実用化(1km)もこの年として知られています。このようなデジタル(情報)革命の前夜とも言える技術と市場のうねりの中で、当時の半導体技術者には、限りない夢とロマンを持つことが許されていたのです。今回のノーベル賞受賞となったベル研でのCCDにまつわる研究・開発・製品化の物語も、そのような人たちの中で展開されたものであることは言うまでもありません。いろいろな意見があるのでは、と思っていたところに、IEEEから配信された記事が、10月15日、私の電子メールに届きました。“Who Deserves Credit for the Nobel Prize-winning CCD? IEEE Spectrum :<このノーベル賞を本当に受けることに値する人は誰なのか>”。興味津々、読んでみると、次のようなことが書かれています。「当時のベル研では、半導体メモリーの実用化に向けた技術と半導体撮像素子が最大のテーマだった。ボイルとスミスの最初のCCDのコンセプトは“表面電荷の転送という物理的モデル”だった。新しいメモリーの動作を意識したものであって、光から変換された電荷を転送し撮像を可能にするという概念ではなかった。それを着想し、実現したのは私-M.F.Tompsett- だ!参考IEEE Trans.ED-20(1973)」というインタビュー記事です。オリジナルな技術が着想され、実証され、そして社会貢献へと成長していく過程では、いろいろな人の貢献があったということは誰しも思うこところです。当事者ではない私たちにとってこの内容を更に追う必要は毛頭ありません。ただ、ついでながら思うことが一つあります。それは、これまで、アメリカで生まれた技術をキャッチアップし、事業として社会に創出してきた多くの日本人たちの貢献なくして、今回のノーベル賞も実現しなかったのでは? とも言えるのではないでしょうか。キャッチアップ時代を過ごしてきた私たち日本人の中には、1990年“ジャパン・アズ・ナンバーワン”と言われたことを誇りに思っている人も多くいるのです。私は、アメリカ人パートナーたちに、いつも、”Complementary Collaboration (補完協業、日本の事業化力なしにアメリカの技術は完成しない、)“という言葉を使ってきました、ちなみに、この言葉は私の発明した造語です(EE Times 1999/10/25)。 最初の発明や思いつきから、10年を越えて実用化し、そして、市場創出の緒につき、事業として社会に認知されていくのに更なる20年が必要なのです。私が、アメリカ人パートナーたちに繰り返し言い続けてきた言葉は“Be patient!(いま少しの辛抱です)”でした。このような屈辱的(?)な言葉を使わなければならなかった私には、新しい21世紀“環境革命”への緒についたばかりの今こそ、日本には真の独創技術が必要であると思えるのです。 091018京都環境ナノクラスター本部 加納剛太